日本語レッスンには小説などをよむ読解のレッスンもあります。
レベルにもよりますが、小中学校の国語の教科書で使われる題材が多いですね。
この前は太宰治の「走れメロス」を使いました。
まあ、原文ではなく多少表現は易しめにしていますが、あらすじは変わりません。
「走れメロス」は中学校の教科書に使われるので、日本人で知らない人はまずいません。
そういった意味では、外国人の人が勉強に使うにはうってつけです。
「走れメロス」が教科書に使われるのは、友情とか人を信じることの大切さとか、多感な時期に考えてもらおうという意図でしょうね。
特に印象に残るのが、クライマックスのシーン。
メロスの身代わりとなってまさに死刑になる寸前だった友人のセリヌンティウスの元に、一瞬でも逃げようと考えたメロスが駆け寄り、自分を殴るよう言います。
一方のセリヌンティウスは、メロスの言葉通り殴ったあとに、一瞬でもメロスが逃げるのではと疑ったことを謝り、殴るように言います。
メロスもセリヌンティウスを殴ったあと、二人は抱き合って友情を確かめあいます。
これを見た王様が人を信じる大切さを悟り、改心することになります。
ここでのポイントはお互いを殴ることでしょうね。
言葉だけだったり、デコピンではどうにも雰囲気が出ません。
まあ、感想文では大体このシーンを書くはずです。
ところが、読み終わった後の外国人学習者の反応はちょっと違いましたね。
殴るのはおかしいでしょ、殴らなきゃわからない友情って何?ということです。
言われてみれば、まあなんとなくわかります。
走れメロスはギリシャの伝承の物語を太宰がアレンジしたもののようで、殴るのは太宰オリジナルかもしれません。
太平洋戦争の直前の時期に書かれていますから、ちょっと時代の雰囲気もあるのでしょうね。
となると、暴力ご法度のこの令和の時代。
中学校の教科書に掲載されているのはいかがなものかという声が出てきてもおかしくありません。
かといって、殴るシーンを変えてしまうとねえ。
かくして、走れメロスが教科書から消えてしまう日が来そうな予感がしてきたわけです。
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